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アンジェラのリストとじぶん年表 [『ストリング』連載]

 『ストリング』5月号がまもなく発売されます。
 
 連載の第4回目で、やっと具体的な話(それまでは、ちょっと前置き。長かったけど)に入ります。

 5月号から3回かけて、プロフィールの書き方の実践編をやろうとしているところです。

 第1回目は、すべてのプロフィールの元ネタになる、ミニ自分史の作り方がテーマです。

 そちらをお読みになって、わからないこと、質問などありましたら、このエントリーのコメント欄にどんどんお寄せください。なるべくブログ上で答えていきたいと思っています(その方が、ブログの更新を一生懸命やるようになると思うので…)。

 あるいは、こうしたらもっといいプロフィールが書ける!というアイディアなども投稿してくださいませ。みんなでいい知恵出し合いましょう。

 コメント設定を「ブログ管理者の承認後、掲載」にしてあります(こうすると、承認しろ-というのがノーティスがくるので、怠けないだろうという下心見え見え)。

 コメント欄にはちょっと書けないけど、聞きたいことがある、という場合は、このブログの上の方にあるプロフィールから、私のメールアドレスを見つけて、そちらにご質問ください。

 ところで、あんたは自分でこういうことやったの(結構めんどくさいので)、と思う方もいらっしゃるでしょう。

 答えは、半分イエスで半分ノーです。実は、ずいぶんたくさん「他人のじぶん年表」を作りました。このフォーマットのもとになったのは、カザルスホールでやっていたHASEKO CLASSIC SPECIALという、新進気鋭の若手演奏家による1年間のリサイタルシリーズの記者発表資料としてつけていた、アーティスト年表です。

 音楽事務所が用意したプロフィールの中身を一度時系列に全部並べ直し、それを元に、アーティストからの聞き取りをしました。まだポストイットなんていう便利なものはなかったので、大きな紙にいっぱい吹き出しをつけて、彼ないし彼女が語ることを書き込んでいきました。小さいときのことは、お母さんがよく覚えていてくれることが多く、こどものころのほんとにすてきな写真を見せていただいたり、そんなときに思わぬ掘り出し物の資料(本人も知らない)がでてきたり、記憶力と体力勝負の仕事でしたけれど、楽しい作業のひとつでした。

 できあがったものをアーティスト自身もおもしろがってくれて、それこそ「わたしって、こんな人だったのねえ」という台詞もそんなときに聞いたもの。

 でも、自分のは作っていません。ホントに本になりそうな分量がありそうなので。その代わりと言ってはなんですが、短い「じぶん略史」は作りました。ご参考までに、以下に貼り付けます。
 
 これは、財団法人 地域創造が毎年行っている公共ホールの企画制作担当者のための「ステージ・ラボ」のコーディネーターをしたときに、参加者全員にプロフィールを書いてもらう事前課題の「お手本」として書いたものです。

【お定まりのアイテム
*生年月日:1960年4月8日 午後4時ちょっと前。一応女性。牡羊座、子年。
*生まれた場所:横浜市(市大病院。小さい頃、言うことを聞かないと、「おまえなど、市大病院の裏のごみ箱から拾ってきたものだから、またそこへ捨てに行く」と脅された。)
*育った場所:同じく横浜。「ど」がつくほどの下町。家の前は路面電車(後に地下鉄)が通る鎌倉街道。隣は魚屋、反対どなりは畳屋、並びに肉屋、自転車屋、酒屋(後にスーパー)、ついでに新興宗教の教祖さままで揃った、にぎわいの中で育った。道を挟んだ反対側には、骨接ぎ、耳鼻科、歯科、内科、産婦人科と揃っていて、どんな病気も怖くない街であった。
*ニックネーム:珍しい名字なので、幼稚園の時から「みの」または「みのちゃん」

【いわゆる経歴風に…】*
横浜の某ミッション系女子校に幼稚園から高校まで通う(ここは小学校から女子校だった)。良妻賢母教育で有名な学校だったが、時にはこういう不出来なのも出る。天真爛漫の小学校時代、一転制服の色のようにグレー一色の中高時代、まあいろんなことがあったけれど(未だにあまり思い出したくない)、推薦入学で国際基督教大学へ。大学では、ギリシャ語とラテン語と美術史を勉強し、現亭主を捕まえた。卒業した83年は土砂降りの就職難。友人たちが面接で泣かされた話を聴くにつけ、受けに行く前から戦意喪失。めでたくフリーターとなる(まだそんな言葉がなかったので、元祖!)。ふらふら生きているのを見かねた学寮での先輩が、自分の勤め先のアルバイトを斡旋してくれた。日本IBMサイエンスインスティチュートという研究所で、ここで1年間コンピュータでの機械翻訳の基礎研究のお手伝い。もとより水が合ったのか、門前の小僧よろしくコンピュータのイロハ(0101か)を覚え、ここに居座ろうかとも思ったが、運悪く新規採用が突然中止、再びぷーたろーに戻る。コーヒー専門店のアルバイトをしたり、家庭教師をしたりしながらまたぶらぶらしていると、別の先輩が見かねてコンピュータマニュアルの翻訳制作会社を紹介してくれた。ここでまた2年ほど、翻訳から版下作りまで一通りのことはやった。人様の情けにすがって、ふらふらと生きていたが、たった一度だけまともな面接を受けて、見事落ちたのが、85年サントリーホールオープニングスタッフ募集。後から聞けば最終選考まで残ったらしい。このときばかりはかなり落ち込んだ。ただ、応募書類のコピーが萩元晴彦氏の手元にあって、紆余曲折はあったが、87年6月から、カザルスホール企画室・アウフタクトに入り、2000年3月企画室閉鎖までカザルスホールで育った。再び「たのしーぷーたろー生活」に戻れるかと思っていたが、日本チェロ協会のお手伝いをしていた縁で(話せば長い)、2000年10月から、第一生命ホール(晴海トリトンスクエアにあります)を拠点とするNPOトリトン・アーツ・ネットワーク(TAN)の立ち上げに加わり、TANディレクターとなる。弦楽四重奏とコミュニティプログラムにどっぶりの毎日で約7年半を過ごしてきたが、人生先はわからないもの、突如として、かつて落選したサントリーホールへ。埋立地から一転、おしゃれな赤坂に…。愛しき特車第2課の面々よ、また逢う日まで。

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